みずば霊魂学
霊的世界に関して初心者向けの内容です
霊的な真実を探求しています
最近流行りのシルバーバーチなどのスピリチュアリズムの主張とは異なっています
また、「テレビ等では高級な霊魂現象は起きない」と主張しております
統一教会とは一切関係がありません
水波一郎師 監修
2014.01.21
「愛」とは、人間にとって最も大切な感情表現とも言えます。そのため、宗教団体はこれを説かない教団はない、と言われるほどに、この「愛」を重要視しています。
ところが現実を見ますと、邪教ではないか、と世間から非難されている宗教ほど、この「愛」という言葉を多用しているのではないかと思えるのです。
「愛」というものを語るには、まず、その質や深さといったことについて、考える必要があるでしょう。
高級霊魂によりますと、実は「愛」は最も大切ではあるのですが、地上の人間達の言う「愛」は自己中心的であることが多いのだそうです。
そして、単に「愛」という言葉のみをアピールしても、あまり意味はないということでした。
他の人のために自分を犠牲に出来るという人もいますが、そうした人は結局、自分の家族や自分の親しい人のためには犠牲になれますが、赤の他人のためには自分は犠牲にできないのが現実です。
さらに言いますと、他国の人が餓死しそうだからといって、自分が建てた家を売って奉仕する人は誰もいないでしょう。
自分との関わりの強さによってしか奉仕しないのです。
自分の子供や恋人のためなら命までも捧げようとする人が、他人のためには、命はおろか、車一台さえ捧げられないのです。
一方、高級霊魂達は無関係な人間のためにその霊魂としての全てを掛けて自己を犠牲にするのです。
いくら「愛」が大切だと聞かされても、実際には、人が急に「愛」の心が涌き出ることは少ないということでした。
なぜなら、それまでの人生に身につけてこなかったものが、急に表現されることはなく、心理の中に入っている心情しか涌いてこないらしいからなのです。
つまり、「愛」を実践しようとする事は、大切で良いことなのですが、それと同時に、自分の心理の中に「愛」を増やす作業をしなければ、「愛」は深くならないということなのでした。
そのためには、過去世で積み重ねた心理から、より深い愛を持つ部分を刺激して、浮かび上がらせたり、あるいは、他の霊的生命体から、それに類似した力を吸収しなければ、増加してこないということなのです。
それ以外の方法では、通常の人生において、人間としての経験を積み重ね、少しずつ愛の心が育って行くのを待つことになります。
ところが、現代の社会の中では、むしろ逆の方向に心情が動いて行くことが多いようなのです。
そのため、神伝禊法のような特殊な修行をして過去世のより深い愛を持つ部分を刺激し、それが表面の意識に影響を与えてこないことには、より高度で宗教的な愛の心情は噴出しにくいようなのでした。
が、しかし、だからといって、神伝禊法の実習者がすぐに愛が深くなるわけでもありません。
それは、表面の意識がストップを掛けてしまう人がいるらしいからです。
そのわけは、自分の中で、より高貴な部分が浮いてくることに恐怖心を持ったり、違和感を感じたりして、自分の中をうまく整理できない人もいるからなのです。
したがいまして、簡単ではありません。
それでも、一歩一歩、より高貴な愛の心情を発現させるためには、何らかの努力が必要だということなのでした。
ところが現実を見ますと、邪教ではないか、と世間から非難されている宗教ほど、この「愛」という言葉を多用しているのではないかと思えるのです。
「愛」というものを語るには、まず、その質や深さといったことについて、考える必要があるでしょう。
高級霊魂によりますと、実は「愛」は最も大切ではあるのですが、地上の人間達の言う「愛」は自己中心的であることが多いのだそうです。
そして、単に「愛」という言葉のみをアピールしても、あまり意味はないということでした。
他の人のために自分を犠牲に出来るという人もいますが、そうした人は結局、自分の家族や自分の親しい人のためには犠牲になれますが、赤の他人のためには自分は犠牲にできないのが現実です。
さらに言いますと、他国の人が餓死しそうだからといって、自分が建てた家を売って奉仕する人は誰もいないでしょう。
自分との関わりの強さによってしか奉仕しないのです。
自分の子供や恋人のためなら命までも捧げようとする人が、他人のためには、命はおろか、車一台さえ捧げられないのです。
一方、高級霊魂達は無関係な人間のためにその霊魂としての全てを掛けて自己を犠牲にするのです。
いくら「愛」が大切だと聞かされても、実際には、人が急に「愛」の心が涌き出ることは少ないということでした。
なぜなら、それまでの人生に身につけてこなかったものが、急に表現されることはなく、心理の中に入っている心情しか涌いてこないらしいからなのです。
つまり、「愛」を実践しようとする事は、大切で良いことなのですが、それと同時に、自分の心理の中に「愛」を増やす作業をしなければ、「愛」は深くならないということなのでした。
そのためには、過去世で積み重ねた心理から、より深い愛を持つ部分を刺激して、浮かび上がらせたり、あるいは、他の霊的生命体から、それに類似した力を吸収しなければ、増加してこないということなのです。
それ以外の方法では、通常の人生において、人間としての経験を積み重ね、少しずつ愛の心が育って行くのを待つことになります。
ところが、現代の社会の中では、むしろ逆の方向に心情が動いて行くことが多いようなのです。
そのため、神伝禊法のような特殊な修行をして過去世のより深い愛を持つ部分を刺激し、それが表面の意識に影響を与えてこないことには、より高度で宗教的な愛の心情は噴出しにくいようなのでした。
が、しかし、だからといって、神伝禊法の実習者がすぐに愛が深くなるわけでもありません。
それは、表面の意識がストップを掛けてしまう人がいるらしいからです。
そのわけは、自分の中で、より高貴な部分が浮いてくることに恐怖心を持ったり、違和感を感じたりして、自分の中をうまく整理できない人もいるからなのです。
したがいまして、簡単ではありません。
それでも、一歩一歩、より高貴な愛の心情を発現させるためには、何らかの努力が必要だということなのでした。
世界中、どの宗教でも、愛を説いてきました。
愛という言葉でなくても、慈悲であっても、その真意には共通するものがあるのでしょう。
細いところは皆、違っているのでしょうが、宗教は皆、おおむね愛を主張しているように思われます。
それは、いわゆるスピリチュアリズムであっても、神秘主義であっても、大差はないと思います。
愛を悪いという教えは、真面目な宗教では、まず、ないでしょう。
つまり、皆、愛が貴いことは分かっているのです。
ではどうして、それを何度も言わなければならないのでしょうか。
それは、人間という生命体が、愛とは遠い行動をする事が多いからなのではないでしょうか。
人々の心の中に愛の心が入っているのは、皆、知っています。
ですが、現実の社会はどうでしょうか。
愛に反する行為で溢れています。
それが問題なのです。
言わなければ、悪くなる一方なので、宗教はそれを口やかましく言ってきたのかもしれません。
それでも現実は厳しいようです。
人はなかなか愛を行動で表わすことができません。
それはなぜなのでしょうか?
それはおそらく肉体を持って生まれたからなのでしょう。
霊魂学では、肉体の仕組みを指摘しています。
もしも、人が肉体を持っていなければ、心の中にある理想だけを語り、理想に沿った行動をすることが可能かもしれません。
ですが、肉体を持って生まれてしまうと、そう簡単には行かないのです。
人は食事をしなければ一日も生きられません。
一食抜いただけでも、おなかがすいて動けなくなってしまいます。
赤ちゃんは、自分一人では何もできません。
人に限らず、全ての動物は食べるために必死になるしかないのです。
ですから、ジャングルは弱肉強食になってしまいます。
強い者が弱い者を食べて生きて行くしかないのです。
そこには、善も悪もなく、愛も憎悪も入り込む余地はないのです。
人間も、肉体を持つ生き物です。
生きるためには、豚や牛を殺して食べるしかないのです。
つまり、人は生まれた時から、食べる為、家や衣服を得る為、教育されて、生き続けているのです。
受験教育は将来の職業の為なのでしょうから、結局、衣食の為なのです。
そのようにして、他に打ち勝ち、勝ち組みになるわけです。
自然にしていたらエリート意識で人を見下し、弱い人を弾き出すに違いないのです。
これでは、負けた人達は犯罪にばかり走ってしまいます。
それでは、勝った人にとっても住みにくい社会になってしまいます。
いつ襲われるか分からない社会では困ります。
ですから、心や道徳、そして、愛の教育が必要になるのです。
大勢の人達が暮らしやすい社会にする為には、人には倫理が必要なのです。
ただ、基本的には人は肉体を保持しなければなりません。
どうしても食べなければならないので、他を押し退けてもチャンスを掴みたいし、他の人はどうなろうと、買い溜めしてしまうのです。
頭では愛の精神が必要だと思っていても、自分の子供が食べられないとなると、なりふり構わなくなるのです。
人は肉体の保持がまず必要です。
その為には、競争に勝ちたいし、自分の子供を、よその子よりも下にはしたくありません。
ですから、どうしても、愛は口先だけになってしまうのです。
世界中の人にまで聞こえるのではないか、と思うほどに大きな声で愛を叫んでいるのに、家に帰れば全く違う行動を取っている人がいます。
その人は、自分でもその矛盾に気付いていないのかもしれません。
今、テレビを見て苛められた可愛そうな子に涙し、それを助ける主人公に感動したはずなのに、次の瞬間には、近所の奥さんに意地悪する為に、打ち合わせの電話をしていても、自分は愛が深いと思い込んでいる人も大勢います。
愛、それは貴い言葉です。
ですが、口で言うほど簡単ではありません。
霊魂学は、そんな自分達の本当の姿を自覚し、その未熟な自分を知る事から進歩が始まると主張しているのです。
愛という言葉でなくても、慈悲であっても、その真意には共通するものがあるのでしょう。
細いところは皆、違っているのでしょうが、宗教は皆、おおむね愛を主張しているように思われます。
それは、いわゆるスピリチュアリズムであっても、神秘主義であっても、大差はないと思います。
愛を悪いという教えは、真面目な宗教では、まず、ないでしょう。
つまり、皆、愛が貴いことは分かっているのです。
ではどうして、それを何度も言わなければならないのでしょうか。
それは、人間という生命体が、愛とは遠い行動をする事が多いからなのではないでしょうか。
人々の心の中に愛の心が入っているのは、皆、知っています。
ですが、現実の社会はどうでしょうか。
愛に反する行為で溢れています。
それが問題なのです。
言わなければ、悪くなる一方なので、宗教はそれを口やかましく言ってきたのかもしれません。
それでも現実は厳しいようです。
人はなかなか愛を行動で表わすことができません。
それはなぜなのでしょうか?
それはおそらく肉体を持って生まれたからなのでしょう。
霊魂学では、肉体の仕組みを指摘しています。
もしも、人が肉体を持っていなければ、心の中にある理想だけを語り、理想に沿った行動をすることが可能かもしれません。
ですが、肉体を持って生まれてしまうと、そう簡単には行かないのです。
人は食事をしなければ一日も生きられません。
一食抜いただけでも、おなかがすいて動けなくなってしまいます。
赤ちゃんは、自分一人では何もできません。
人に限らず、全ての動物は食べるために必死になるしかないのです。
ですから、ジャングルは弱肉強食になってしまいます。
強い者が弱い者を食べて生きて行くしかないのです。
そこには、善も悪もなく、愛も憎悪も入り込む余地はないのです。
人間も、肉体を持つ生き物です。
生きるためには、豚や牛を殺して食べるしかないのです。
つまり、人は生まれた時から、食べる為、家や衣服を得る為、教育されて、生き続けているのです。
受験教育は将来の職業の為なのでしょうから、結局、衣食の為なのです。
そのようにして、他に打ち勝ち、勝ち組みになるわけです。
自然にしていたらエリート意識で人を見下し、弱い人を弾き出すに違いないのです。
これでは、負けた人達は犯罪にばかり走ってしまいます。
それでは、勝った人にとっても住みにくい社会になってしまいます。
いつ襲われるか分からない社会では困ります。
ですから、心や道徳、そして、愛の教育が必要になるのです。
大勢の人達が暮らしやすい社会にする為には、人には倫理が必要なのです。
ただ、基本的には人は肉体を保持しなければなりません。
どうしても食べなければならないので、他を押し退けてもチャンスを掴みたいし、他の人はどうなろうと、買い溜めしてしまうのです。
頭では愛の精神が必要だと思っていても、自分の子供が食べられないとなると、なりふり構わなくなるのです。
人は肉体の保持がまず必要です。
その為には、競争に勝ちたいし、自分の子供を、よその子よりも下にはしたくありません。
ですから、どうしても、愛は口先だけになってしまうのです。
世界中の人にまで聞こえるのではないか、と思うほどに大きな声で愛を叫んでいるのに、家に帰れば全く違う行動を取っている人がいます。
その人は、自分でもその矛盾に気付いていないのかもしれません。
今、テレビを見て苛められた可愛そうな子に涙し、それを助ける主人公に感動したはずなのに、次の瞬間には、近所の奥さんに意地悪する為に、打ち合わせの電話をしていても、自分は愛が深いと思い込んでいる人も大勢います。
愛、それは貴い言葉です。
ですが、口で言うほど簡単ではありません。
霊魂学は、そんな自分達の本当の姿を自覚し、その未熟な自分を知る事から進歩が始まると主張しているのです。
高級霊魂からのメッセージを、Q&A形式でお伝えします。
Q: 他の人に対する愛は、どう考えれば良いのでしょうか?
A: 真に相手の為になるとは何かを考えれば、愛の行為が深くなります。
ですが、真に相手の事を考えると、信仰者は皆、自分の信仰を人に押しつけることになり、随分と迷惑な行為をすることになります。
Q: しつこい布教をする人達には困ってしまいます。
A: そうですね。実に迷惑なのです。
ですが、信仰が人にとって必要だと考える人達にとっては、信仰を持たない人達は、間違った人達なのです。
ですから、その思いが高じると、しつこくなるとも言えます。
Q: 私達はどうあるべきなのですか?
A: 人は本来自由なのです。
真実を知るのも、そして、知らないのも、自由だということです。
下の世界に落ちても本人の選択なのですから、他人がとやかく言える事ではないのです。
ただし、信仰を拒否して下の世界に入った人の場合は、「神様、助けてください」とは言えません。
Q: 他の人に対する愛は、どう考えれば良いのでしょうか?
A: 真に相手の為になるとは何かを考えれば、愛の行為が深くなります。
ですが、真に相手の事を考えると、信仰者は皆、自分の信仰を人に押しつけることになり、随分と迷惑な行為をすることになります。
Q: しつこい布教をする人達には困ってしまいます。
A: そうですね。実に迷惑なのです。
ですが、信仰が人にとって必要だと考える人達にとっては、信仰を持たない人達は、間違った人達なのです。
ですから、その思いが高じると、しつこくなるとも言えます。
Q: 私達はどうあるべきなのですか?
A: 人は本来自由なのです。
真実を知るのも、そして、知らないのも、自由だということです。
下の世界に落ちても本人の選択なのですから、他人がとやかく言える事ではないのです。
ただし、信仰を拒否して下の世界に入った人の場合は、「神様、助けてください」とは言えません。