みずば霊魂学
霊的世界に関して初心者向けの内容です
霊的な真実を探求しています
最近流行りのシルバーバーチなどのスピリチュアリズムの主張とは異なっています
また、「テレビ等では高級な霊魂現象は起きない」と主張しております
統一教会とは一切関係がありません
水波一郎師 監修
2014.02.07
今、世界は、少なくとも日本は、随分と環境が悪くなりました。
物理的な次元での環境の悪化も問題になっていますが、霊的な環境の悪化はそれ以上だと言えます。
物理的な環境が悪くなれば、人は住む事ができません。
地球が放射能で一杯になってしまえば、庶民が全員、核シェルターに入ることができ、そこで食物を生産することが可能でない限りは、生きる事すらできません。
そんな世の中にならない事を願っています。
ですが、問題はそれだけではなかったのです。
霊的な環境も随分と悪化していたからでした。
霊的な環境は目には見えません。
数値を計る事もできません。
霊魂の存在自体が認められていない時代では、それを語る人も、信じる人も、少ないのが実情です。
しかし、これは霊的生命体にとっては大問題だったのです。
このHP(霊をさぐる PC版)をお読みの方は概ね霊魂の実在を信じていらっしゃることと思います。
それを前提にして語っています。
この世は物質の世界ですが、同時に霊魂も干渉し得る世界です。
人間は肉体だけでなく、『幽体』という霊的な身体をも所持しています。
この世界は空気で覆われていて、人は酸素を吸収して生きています。
高級霊魂からのメッセージによりますと、それと同じように、幽体は霊魂学で『幽気』と呼ばれる霊的な気を吸収しているらしいのです。
その幽気の質が低いと、幽体は不健全になりやすく、質が良いと健全化しやすいとの事です。
つまり、霊的な環境が悪いとは、この幽気の質があたかも排気ガスのようになっているという事なのです。
そのために、各人の幽体が不健全になってしまい、幽体からオーラと呼ばれる光のようなものが出にくくなってしまっているとの事なのでした。
その状態は、高級な霊魂との接点がなくなる事を意味しているそうです。
別の見方をすれば、高級な霊魂が人間に寄りにくい環境であるということは、邪悪な霊魂にとっては、人間に寄りやすくなるということなのです。
人間にとって好ましくない霊魂が寄って来やすくなるという事は、その霊魂達の放つ霊的な気によって、霊的な環境が更に悪くなるという事なのでした。
これは、霊的には随分と悪い悪循環なのです。
どんどん霊的な環境が悪くなり、幽気があたかも放射能汚染のような状態になってしまったら、人々の守護霊や指導霊はほとんど活躍できなくなってしまいます。
そして、人々はどんどん邪悪な側の影響を受けやすくなって行きます。
死後の世界に入ってからのみでなく、この世に居る間もずっと、霊的な悪影響を受けながらの生活を余儀なくされた人々の苦悩は、更に増大することが予測されるのです。
どれほど物質的に豊かになっても、この世は精神的な苦悩で満ち溢れています。
これでは到底、幸福な社会とは言えません。
これからどんどん苦悩が増して行くことが予想されます。
霊魂学はこのような悪い環境を改善したいと考えているのです。
物理的な次元での環境の悪化も問題になっていますが、霊的な環境の悪化はそれ以上だと言えます。
物理的な環境が悪くなれば、人は住む事ができません。
地球が放射能で一杯になってしまえば、庶民が全員、核シェルターに入ることができ、そこで食物を生産することが可能でない限りは、生きる事すらできません。
そんな世の中にならない事を願っています。
ですが、問題はそれだけではなかったのです。
霊的な環境も随分と悪化していたからでした。
霊的な環境は目には見えません。
数値を計る事もできません。
霊魂の存在自体が認められていない時代では、それを語る人も、信じる人も、少ないのが実情です。
しかし、これは霊的生命体にとっては大問題だったのです。
このHP(霊をさぐる PC版)をお読みの方は概ね霊魂の実在を信じていらっしゃることと思います。
それを前提にして語っています。
この世は物質の世界ですが、同時に霊魂も干渉し得る世界です。
人間は肉体だけでなく、『幽体』という霊的な身体をも所持しています。
この世界は空気で覆われていて、人は酸素を吸収して生きています。
高級霊魂からのメッセージによりますと、それと同じように、幽体は霊魂学で『幽気』と呼ばれる霊的な気を吸収しているらしいのです。
その幽気の質が低いと、幽体は不健全になりやすく、質が良いと健全化しやすいとの事です。
つまり、霊的な環境が悪いとは、この幽気の質があたかも排気ガスのようになっているという事なのです。
そのために、各人の幽体が不健全になってしまい、幽体からオーラと呼ばれる光のようなものが出にくくなってしまっているとの事なのでした。
その状態は、高級な霊魂との接点がなくなる事を意味しているそうです。
別の見方をすれば、高級な霊魂が人間に寄りにくい環境であるということは、邪悪な霊魂にとっては、人間に寄りやすくなるということなのです。
人間にとって好ましくない霊魂が寄って来やすくなるという事は、その霊魂達の放つ霊的な気によって、霊的な環境が更に悪くなるという事なのでした。
これは、霊的には随分と悪い悪循環なのです。
どんどん霊的な環境が悪くなり、幽気があたかも放射能汚染のような状態になってしまったら、人々の守護霊や指導霊はほとんど活躍できなくなってしまいます。
そして、人々はどんどん邪悪な側の影響を受けやすくなって行きます。
死後の世界に入ってからのみでなく、この世に居る間もずっと、霊的な悪影響を受けながらの生活を余儀なくされた人々の苦悩は、更に増大することが予測されるのです。
どれほど物質的に豊かになっても、この世は精神的な苦悩で満ち溢れています。
これでは到底、幸福な社会とは言えません。
これからどんどん苦悩が増して行くことが予想されます。
霊魂学はこのような悪い環境を改善したいと考えているのです。
2014.02.08
質の低い幽気が蔓延してしまった背景には、人々の変化がある事は言うまでもない事です。
人々は科学の発展と共に純粋な信仰を軽んじるようになりました。
幽霊は全て錯覚であり、非科学的なものであると決め付けられています。
そこに高級霊魂の出番はありません。
人々の自由意思によって拒絶されたも同然だからです。
神や仏に、実際に人々の念や思いが届く事はないのですが、それでも、人々は祈り、それを前提として生活し、神社や仏閣に足を運べば、そこは質の良い幽気の集まる条件を備えていたのでした。
そして、その場所にいる聖職者の方が真剣に修行していらっしゃれば、そこには高級な霊魂も集まり得たのでしょう。
ところが、現代はどうでしょう。
神様や仏様の実在を信じて足を運んでいる信者がどれほどいるでしょうか。
また、聖職者自身が神の実在を本気で信じていらっしゃるのでしょうか。
誰も信じていない空間には、それに応じた幽気しかありません。
つまり、人々の自由意思が高級な幽気を遠ざけることとなり、この世の霊的環境を悪くしてしまったのです。
現代の日本には霊魂の実在を信じている人達も大勢いらっしゃいます。
ですが、現実は厳しく、そこに高級な幽気はなかなか集まりません。
人々はスピリチュアルな話は好きでも、信仰や宗教と言うと毛嫌いし、団体を恐れ、個人でしか動かないからです。
その上、一部の宗教団体や類似の団体には、昔では考えられなかったような邪悪な霊魂集団が集まっているらしいのです。
これでは、ますます、この世の幽気の質が悪くなってしまいます。
人々は視点を変えるべきと言えます。
人々が一つの場所に集まり、霊的な修行をし、そこに強くて高級な幽気を放てる人を招き、高級な霊魂やより質の高い幽気を集めるべきなのです。
そうすることにより、そこに集まった人達は、より質の高い幽気を吸収する事ができるのです。
少しずつでも、そのような場所が増えていけば、この世の霊的環境は良くなって行くのです。
霊魂学はいつも叫んでいます。
人々は科学の発展と共に純粋な信仰を軽んじるようになりました。
幽霊は全て錯覚であり、非科学的なものであると決め付けられています。
そこに高級霊魂の出番はありません。
人々の自由意思によって拒絶されたも同然だからです。
神や仏に、実際に人々の念や思いが届く事はないのですが、それでも、人々は祈り、それを前提として生活し、神社や仏閣に足を運べば、そこは質の良い幽気の集まる条件を備えていたのでした。
そして、その場所にいる聖職者の方が真剣に修行していらっしゃれば、そこには高級な霊魂も集まり得たのでしょう。
ところが、現代はどうでしょう。
神様や仏様の実在を信じて足を運んでいる信者がどれほどいるでしょうか。
また、聖職者自身が神の実在を本気で信じていらっしゃるのでしょうか。
誰も信じていない空間には、それに応じた幽気しかありません。
つまり、人々の自由意思が高級な幽気を遠ざけることとなり、この世の霊的環境を悪くしてしまったのです。
現代の日本には霊魂の実在を信じている人達も大勢いらっしゃいます。
ですが、現実は厳しく、そこに高級な幽気はなかなか集まりません。
人々はスピリチュアルな話は好きでも、信仰や宗教と言うと毛嫌いし、団体を恐れ、個人でしか動かないからです。
その上、一部の宗教団体や類似の団体には、昔では考えられなかったような邪悪な霊魂集団が集まっているらしいのです。
これでは、ますます、この世の幽気の質が悪くなってしまいます。
人々は視点を変えるべきと言えます。
人々が一つの場所に集まり、霊的な修行をし、そこに強くて高級な幽気を放てる人を招き、高級な霊魂やより質の高い幽気を集めるべきなのです。
そうすることにより、そこに集まった人達は、より質の高い幽気を吸収する事ができるのです。
少しずつでも、そのような場所が増えていけば、この世の霊的環境は良くなって行くのです。
霊魂学はいつも叫んでいます。
2014.02.08
それでは、より高級で強い幽気、あるいは、幽気を越えるような霊的な気を集めることはできるのでしょうか。
できます。
なぜならば、人間は幽体の他にも霊的な身体を持っているからです。
霊的な身体の事は、西洋の神秘主義でも心霊研究でも、共に指摘しています。
ですが、見解は多少異なります。
神秘主義の場合は、人によっては、細かい分類をしている人もいます。
もっとも、細かいからと言って、それが正しいとは限らないところが難しいところです。
『幽体』の他にも霊的な身体があり、それは幽体よりも高貴な身体なのだそうです。
その身体を霊魂学では『霊体』と呼んでいます。
霊体から良好なオーラが出ますと、それに相応しい霊的な気を集める事が可能になってきます。
それを霊魂学では、『霊気』と呼んでいます。
幽体や霊体が成長し、強くなることで、より高級な霊的な気を地上に呼ぶ事が可能になるという事です。
これを電波にたとえれば、アンテナを立てることで、遠くにある放送局の電波を引くことができるという事なのです。
より高級な霊的な気を呼ぶためには、人々が幽体や霊体を成長させることが必要となります。
まず、幽体を健全にするためには、質の良い幽気が必要でした。
その質の良い幽気、それを呼ぶ為には、幽体の成長が不可欠です。
では、幽体の成長のためには、どうすれば良いのでしょうか。
実際のところ、人は一人一人霊的な課題を背負っているそうです。
それは人により、皆、違っています。
一人一人の顔が違うのと同じで、皆それぞれに、背負っている荷物が違うのです。
その為に、一律の教えでは課題を解決することができないのです。
課題が一律でないために、人は自分の力で自分の課題を解決すべく生まれて来ています。だからこそ、『霊的トレーニング』が必要なのです。
実は、その為に作成されたのが『神伝鎮魂法』という霊的トレーニングなのです。
神伝鎮魂法を実習することにより、人は幽体や霊体を成長させる事ができます。
そうすることにより、この世により高級な幽気や霊気を呼び得るようになって行きます。
すなわち、それは不道徳な霊魂が寄りにくい環境が出来て行くことであり、人々が霊的生命体として個々に成長しやすくなることなのです。
そして、意識の奥に霊的な刺激を当て、まず最初に意識の奥を変革することにより、課題を解決しやすくする霊的トレーニングが『神伝禊法』です。
霊的トレーニングは、一人一人の霊的生命体としての進歩向上の為に行ないますが、それだけではなく、結果として、この世の霊的環境を良くする事につながり、人類全体の為にも必要なものなのです。
*詳しくは『霊的トレーニング』をご参照ください。
できます。
なぜならば、人間は幽体の他にも霊的な身体を持っているからです。
霊的な身体の事は、西洋の神秘主義でも心霊研究でも、共に指摘しています。
ですが、見解は多少異なります。
神秘主義の場合は、人によっては、細かい分類をしている人もいます。
もっとも、細かいからと言って、それが正しいとは限らないところが難しいところです。
『幽体』の他にも霊的な身体があり、それは幽体よりも高貴な身体なのだそうです。
その身体を霊魂学では『霊体』と呼んでいます。
霊体から良好なオーラが出ますと、それに相応しい霊的な気を集める事が可能になってきます。
それを霊魂学では、『霊気』と呼んでいます。
幽体や霊体が成長し、強くなることで、より高級な霊的な気を地上に呼ぶ事が可能になるという事です。
これを電波にたとえれば、アンテナを立てることで、遠くにある放送局の電波を引くことができるという事なのです。
より高級な霊的な気を呼ぶためには、人々が幽体や霊体を成長させることが必要となります。
まず、幽体を健全にするためには、質の良い幽気が必要でした。
その質の良い幽気、それを呼ぶ為には、幽体の成長が不可欠です。
では、幽体の成長のためには、どうすれば良いのでしょうか。
実際のところ、人は一人一人霊的な課題を背負っているそうです。
それは人により、皆、違っています。
一人一人の顔が違うのと同じで、皆それぞれに、背負っている荷物が違うのです。
その為に、一律の教えでは課題を解決することができないのです。
課題が一律でないために、人は自分の力で自分の課題を解決すべく生まれて来ています。だからこそ、『霊的トレーニング』が必要なのです。
実は、その為に作成されたのが『神伝鎮魂法』という霊的トレーニングなのです。
神伝鎮魂法を実習することにより、人は幽体や霊体を成長させる事ができます。
そうすることにより、この世により高級な幽気や霊気を呼び得るようになって行きます。
すなわち、それは不道徳な霊魂が寄りにくい環境が出来て行くことであり、人々が霊的生命体として個々に成長しやすくなることなのです。
そして、意識の奥に霊的な刺激を当て、まず最初に意識の奥を変革することにより、課題を解決しやすくする霊的トレーニングが『神伝禊法』です。
霊的トレーニングは、一人一人の霊的生命体としての進歩向上の為に行ないますが、それだけではなく、結果として、この世の霊的環境を良くする事につながり、人類全体の為にも必要なものなのです。
*詳しくは『霊的トレーニング』をご参照ください。
2014.02.08
大勢の人達が霊的トレーニングを行ない、一堂に集まり霊的な集会や行事を行なう時、その場には、高級、かつ高貴な力が降り得るようになります。
その時、そこに集まる人達の霊的な身体や霊的な意識は、その場の高級な影響を受け、変化しやすくなります。
それは、個々の人達がこの世に生まれて為すべき課題を達成しやすくするだけでなく、霊的生命体としての進歩を促すことに繋がります。
霊的な進歩は人間という霊的生命体のテーマでもありますので、存在そのものの価値を高める事に繋がります。
つまり、霊魂学は、人々が単に学問的な意味で学ぶにとどまらず、霊的トレーニングの実践の中で、それぞれの方が、それぞれに、更に深めていってほしいものなのです。
他の学問であれば、大抵の場合は、勉強ができる人ができない人よりも上に行きます。
ですが、霊魂学はそうとも限らないのです。
霊的トレーニングを深める事によって改めて理解できるようになる事が多いからなのです。
たとえば、頭だけで「高貴な気」と言ってもまるで分かりません。
ですが、霊的トレーニングを実践しながら、霊的な行事に参加していくうちに、独特な感覚を直感できるようになってくるのです。
これは、いくら本を読んでも決して分からない事です。
人は、死後の世界でもずっと生き続けて行く霊的生命体です。
ですから、この世を去る時に消えてしまう肉の脳は、本質ではないのです。
肉の脳だけの勉強では決して掴めないもの、それが、霊的生命体の本性なのです。
ということは、人間は霊的トレーニングを行なわない限り、自分の正体が分からない、ということなのです。
そして、それはただ単に霊的トレーニングを習ったから理解できるというものではありません。
形だけのトレーニングでは会得するにはとうてい及ばないからです。
技法だけを習い、心は他にある、では何の意味もありません。
なぜならば、霊的トレーニングは高貴な霊魂方が関与して初めて成立する訓練だからです。
心が他にあれば、そうした霊魂方の力は降りて来ないのです。
これが、体育との違いです。
スポーツであれば、コーチの事が嫌いであっても、練習を重ねれば、上手になって行きます。
ところが、霊的トレーニングは指導の為に働いてくださる高貴な霊魂方を無視しては成り立たないものなのです。
人が霊魂である限り、肉体の脳だけでは真実は知り得ないということです。
その時、そこに集まる人達の霊的な身体や霊的な意識は、その場の高級な影響を受け、変化しやすくなります。
それは、個々の人達がこの世に生まれて為すべき課題を達成しやすくするだけでなく、霊的生命体としての進歩を促すことに繋がります。
霊的な進歩は人間という霊的生命体のテーマでもありますので、存在そのものの価値を高める事に繋がります。
つまり、霊魂学は、人々が単に学問的な意味で学ぶにとどまらず、霊的トレーニングの実践の中で、それぞれの方が、それぞれに、更に深めていってほしいものなのです。
他の学問であれば、大抵の場合は、勉強ができる人ができない人よりも上に行きます。
ですが、霊魂学はそうとも限らないのです。
霊的トレーニングを深める事によって改めて理解できるようになる事が多いからなのです。
たとえば、頭だけで「高貴な気」と言ってもまるで分かりません。
ですが、霊的トレーニングを実践しながら、霊的な行事に参加していくうちに、独特な感覚を直感できるようになってくるのです。
これは、いくら本を読んでも決して分からない事です。
人は、死後の世界でもずっと生き続けて行く霊的生命体です。
ですから、この世を去る時に消えてしまう肉の脳は、本質ではないのです。
肉の脳だけの勉強では決して掴めないもの、それが、霊的生命体の本性なのです。
ということは、人間は霊的トレーニングを行なわない限り、自分の正体が分からない、ということなのです。
そして、それはただ単に霊的トレーニングを習ったから理解できるというものではありません。
形だけのトレーニングでは会得するにはとうてい及ばないからです。
技法だけを習い、心は他にある、では何の意味もありません。
なぜならば、霊的トレーニングは高貴な霊魂方が関与して初めて成立する訓練だからです。
心が他にあれば、そうした霊魂方の力は降りて来ないのです。
これが、体育との違いです。
スポーツであれば、コーチの事が嫌いであっても、練習を重ねれば、上手になって行きます。
ところが、霊的トレーニングは指導の為に働いてくださる高貴な霊魂方を無視しては成り立たないものなのです。
人が霊魂である限り、肉体の脳だけでは真実は知り得ないということです。
肉体の脳を使用する意識、これは、年齢と共にしか成長しません。
小学生が大人の恋愛を語っても、やはり、それは、小学生のレベルでしかありません。
知識だけがたくさん詰まっても、肉体の成長が伴わないと、心理も伴ってこないのでしょう。
つまり、「肉体が成長しないと成長しにくい意識」があるのです。
霊的な身体にも同様の面があるそうです。
霊的な身体が成長していない人の霊的な意識は随分と未成長なようです。
霊的生命体としての人間を考える時、霊的な身体の成長は不可欠なようです。
この世を生きる為には、人は自己中心的すぎてはいけません。
誰でも肉体を持っている限りは自己保存の本性を持っていますが、だからこそ、皆が皆、自己中心的になると、対立と争いばかりになり、お互いに住みにくくなってしまうからです。
ですから、なるべく大勢の人達と仲良くできる社会にする為には、相手の事を考えた発言や行動が必要になります。
とはいえ、人は動物の身体の所持者です。
自分の子供を犠牲にしてまで動物を守る事はできません。
肉体を持っている限界を自覚しながらも、社会人としてより良い行動をするように心掛ける事が必要になります。
それが出来ていれば、後はどのように生きても、それはその人の自由です。
霊的生命体としての人間は基本的に自由を好みます。
それをあまりに抑圧してはいずれ爆発してしまいます。
ですが、人は目的の為であれば、自由を殺しても我慢できる事があります。
たとえば、優勝の為であれば辛くても走れます。
合格の為であれば、見たいテレビも我慢できます。
それを我慢しなければ目的は達成できません。
人は目的があれば耐える事ができますし、心を強く持つ事もできるのです。
その目標が霊的な生命体として、この世に生きる意味に沿っていれば最善なのでしょう。
そうではなく、ただの肉体の脳の満足の為であったなら、その時は良くても、その時だけの喜びや栄光となることでしょう。
受験の合格、スポーツの優勝、恋愛の成就、どれも皆、人間にとっては大きな喜びです。
達成して心の底から喜ぶのは素晴らしい事です。
皆が皆、そうなれば良いと思います。
ですが、現実は違います。
何事も、勝者の影には敗者あり。敗者の涙の重さを知っての勝利であれば更に貴いのかもしれませんが…
いずれにしましても、全員が勝利の喜びを得る訳ではありませんし、その勝利は、霊的生命体がこの世で為すべき事とも限りません。
問題はそこなのです。
いかなる喜びも霊的な意義を持っていないのです。
素晴らしい事ではありますが、それは、高級霊魂から見ると、むしろ、どうでも良い事なのです。
人々は神や仏に勝利や成功を願います。
ですが、真の高級霊魂から見ると、刹那的な喜びにすぎないと言えるのです。
スポーツの選手が立派な成績を出せば、マスコミも大々的に取り上げます。
それは、この上なく素晴らしい事なのでしょう。
そして、それは、大勢の人に夢や勇気を与えたのかもしれません。
その事自体は素晴らしい事です。
ですが、人はその為に生まれた訳ではありません。
人が霊的な課題をこなせた事、それが真に立派な偉業なのです。
その他の事は立派で素晴らしい事ではありますが、その次の事なのです。
強いて言えば、霊的な課題をこなした上に、何かの勝利や成功も得たのであれば、言う事なしなのかもしれません。
霊魂学、そして霊的トレーニングは人間にとっては不可欠です。
この世で最も大切で貴い行為だと思っています。
その他の事は、それを前提にして考えるならば最良でしょう。
霊魂学の目標は、人々が霊的生命体として真に為すべき事を知り、それを目指す事であり、ついには、神的存在の力がこの世に降りるような理想的な状態を作る事なのです。
それが単なる夢で終わらない事を願っています。
(「トレーニングの会 契山館」参照)
小学生が大人の恋愛を語っても、やはり、それは、小学生のレベルでしかありません。
知識だけがたくさん詰まっても、肉体の成長が伴わないと、心理も伴ってこないのでしょう。
つまり、「肉体が成長しないと成長しにくい意識」があるのです。
霊的な身体にも同様の面があるそうです。
霊的な身体が成長していない人の霊的な意識は随分と未成長なようです。
霊的生命体としての人間を考える時、霊的な身体の成長は不可欠なようです。
この世を生きる為には、人は自己中心的すぎてはいけません。
誰でも肉体を持っている限りは自己保存の本性を持っていますが、だからこそ、皆が皆、自己中心的になると、対立と争いばかりになり、お互いに住みにくくなってしまうからです。
ですから、なるべく大勢の人達と仲良くできる社会にする為には、相手の事を考えた発言や行動が必要になります。
とはいえ、人は動物の身体の所持者です。
自分の子供を犠牲にしてまで動物を守る事はできません。
肉体を持っている限界を自覚しながらも、社会人としてより良い行動をするように心掛ける事が必要になります。
それが出来ていれば、後はどのように生きても、それはその人の自由です。
霊的生命体としての人間は基本的に自由を好みます。
それをあまりに抑圧してはいずれ爆発してしまいます。
ですが、人は目的の為であれば、自由を殺しても我慢できる事があります。
たとえば、優勝の為であれば辛くても走れます。
合格の為であれば、見たいテレビも我慢できます。
それを我慢しなければ目的は達成できません。
人は目的があれば耐える事ができますし、心を強く持つ事もできるのです。
その目標が霊的な生命体として、この世に生きる意味に沿っていれば最善なのでしょう。
そうではなく、ただの肉体の脳の満足の為であったなら、その時は良くても、その時だけの喜びや栄光となることでしょう。
受験の合格、スポーツの優勝、恋愛の成就、どれも皆、人間にとっては大きな喜びです。
達成して心の底から喜ぶのは素晴らしい事です。
皆が皆、そうなれば良いと思います。
ですが、現実は違います。
何事も、勝者の影には敗者あり。敗者の涙の重さを知っての勝利であれば更に貴いのかもしれませんが…
いずれにしましても、全員が勝利の喜びを得る訳ではありませんし、その勝利は、霊的生命体がこの世で為すべき事とも限りません。
問題はそこなのです。
いかなる喜びも霊的な意義を持っていないのです。
素晴らしい事ではありますが、それは、高級霊魂から見ると、むしろ、どうでも良い事なのです。
人々は神や仏に勝利や成功を願います。
ですが、真の高級霊魂から見ると、刹那的な喜びにすぎないと言えるのです。
スポーツの選手が立派な成績を出せば、マスコミも大々的に取り上げます。
それは、この上なく素晴らしい事なのでしょう。
そして、それは、大勢の人に夢や勇気を与えたのかもしれません。
その事自体は素晴らしい事です。
ですが、人はその為に生まれた訳ではありません。
人が霊的な課題をこなせた事、それが真に立派な偉業なのです。
その他の事は立派で素晴らしい事ではありますが、その次の事なのです。
強いて言えば、霊的な課題をこなした上に、何かの勝利や成功も得たのであれば、言う事なしなのかもしれません。
霊魂学、そして霊的トレーニングは人間にとっては不可欠です。
この世で最も大切で貴い行為だと思っています。
その他の事は、それを前提にして考えるならば最良でしょう。
霊魂学の目標は、人々が霊的生命体として真に為すべき事を知り、それを目指す事であり、ついには、神的存在の力がこの世に降りるような理想的な状態を作る事なのです。
それが単なる夢で終わらない事を願っています。
(「トレーニングの会 契山館」参照)